K_Co. 麻雀学HP

K_Co.麻雀列伝

03/03/2001付け
03/17/2007微更新
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「K_Co.麻雀列伝」は、K_Co.のまわりのメンツで起きた、

ちょっとした話題性のあるできごとを記したものです。

95%実話です。(5%は記憶違い。)
−index−

◎金沢麻雀研修旅行報告書 1998
◎近畿麻雀研修旅行報告書 1999
◎「麻雀サークルSinZ.和や」の歴史
◎親にてクンロク出和がり(俺)
◎国士無双1(F村)
◎役満去ってまた役満(鶴D)
◎国士無双その他(色々)
◎シーサンプター(青KI)
◎マネ満の恐怖
◎九蓮宝燈未遂
◎九蓮宝燈の噂(藤#)
◎緑一色未遂
◎東一局の奇跡
◎あんたそりゃぁ・・・
◎麻雀で消える商談
◎変態メール
◎櫛Y先輩御卒業記念牌:部内麻雀大会@カプチノ
◎登場人物紹介
!NEW! ◎K_Co.麻雀学テキストロゴ !NEW!

【金沢麻雀研修旅行報告09/28/1998〜09/30/1998

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 金沢旅行です。TT本、M本、俺、鶴Dのメンバーで、鶴Dの車で行きました。すべて一般道のみで、名古屋を発って行きは岐阜→高山→富山ルートで金沢まで、帰りは琵琶湖沿いのルートで帰ってこよう、という計画になってました。さらに、車で泊まって宿代を浮かし、その分うまいものを食おう、というコンセプトで行ってきました。で、もちろん必要な荷物を積んだあとは雀牌とマットを積みました。
 三日行って、三日とも麻雀しました。
 初日:高山まで走る途中、「道の駅」で休憩しました。これは、国道沿いの各所にある大型休憩所です。そして、がらがらです。これは麻雀できそうな場所だな、とみんな思いながらも明るいうちに高山に着きたかったのでそこは休憩だけで出ました。 高山に到着したらそこに車をとめて、食べ歩き観光をしました。牛串はうまかった!そして牛刺し&ほうじがコストパフォーマンスのいい夕食でした。 その後疾走、夜、富山に着きました。富山駅を見たら、駅前の広場が噴水付きでバカ広くて、一瞬そこで麻雀しようかと四人で語ったほどです。(無理だった。)でもせっかく富山についたから麻雀がやりたい。(なんで?) 大学は時間を問わず研究者に開放されているところ、富山大に行けばどっかでやれるだろう、ということになりました。富山大には楽々入れたものの、電気のついている校舎も含めてすべて電子ロックされているようでした。それも何かあると警報が警備会社に伝わるというのです。我々が途方に暮れてあきらめて出ようと車を走らせました・・・そのとき、扉が開いている暗い校舎がひとつ視界に入りました。そこは廃校舎でした。どうやら移転準備がある日付に強制的に行われて終わったばかりのようで、色々なものが廊下に出されて「廃棄」とか書かれて積んでありました。各教室はネームプレートを除いてほどんどが空です。(これが暗くて荒れてて何か出そうな怖いとこだったんだ、また・・・。)でも我々はそんなことではめげません。ひとつ、机が集積された部屋が見つかって電気もついたので、そこの机を移動して四半荘やりました。そこで、近代麻雀的な場面が見られました。俺の切った八索がどうやらあたり牌だったらしく、白を鳴いているトップ走者TT本は、「うっ」と手牌を見ながら迷っていました。TT本はチョンボ王で、自分のやりたいように麻雀をします。俺らの「あがるな」という口に影響されてか、みのがしてツモ牌をツモりました。南3、俺の親です。流せばいいものを・・と思いながらも、これで2着の俺も逆転の可能性が出てきました。それから、索子染めの鶴Dは、俺の右に位置するTTから索子を三連続で鳴きました。九索、七索とあと何かです。俺とM本は「またTT本の奴め、ぬるい牌を打ちやがって・・・いつ高まるんだ・・・」と思っていました。二枚とも手出しなのでどうやら俺の八索はカン八索で白ノミであったようです。そして、TT本が三索までも切りやがったとき、今度はラス走者の鶴Dが止まりました。「うっ」。どうやら字牌対子でもあって、三索で和がると2000点のようです。俺とM本が、「馬鹿ホンかぁ?清一いくかぁ?」といっていると、鶴は決心して、「ティー」といって(「ちー」のことらしい)、残り二枚からを切りました。おそらく対子落としでしょう。ここで、俺ら三人は信じられないものを見ました。なんと、TT本が手配を倒したその先には、鳴いた白白白の他に、「発発中中中めんつ(6(6」があったのです。・・・鶴氏はぶはっと倒れました。それからTT本の説明を聞いたところ、俺の八索は小三元のあたりだったそうです。そこから、六索ツモ→打九索、六索ツモ→打七索としたそうです。本人も「ビックリだ。」といってました。俺とM本は、「なぜトップで満貫を見逃す・・・俺ならあたる・・・」と人間の小ささを実感しました。実際、M本も染め手だったので、TT本の立場にたって考えれば、発がもちもちじゃないわけがないのです。どう考えたって、あがる一手じゃないですか! 笑いました。ああ、他人事でよかった。  この日は勝ちました。 そういえば、富山大は夜中の二時なのに女の人が一人でいそいそと歩いていました。車に忘れた麻雀牌とマットを廃校舎まで一人で抱えて歩く自分と目が合いながらすれ違ったけど、ありゃ危ないよ。(俺がだが。) あと、同じくして廃校舎に入っていった大学生風の男二人女一人組がいたけど、何すんの?(ナニかな?←それどこじゃなく麻雀だったので調べなかったが。)  終わったあと、金沢まで自分に運転を交代して夜の国道を疾走しました。金沢入りしたときが午前五時くらいで、大きい無料駐車場に車をとめてその中で昼まで四人、寝ました。(いいんだろうか。)
 二日目:昼間から夕方まで金沢を観光しました。兼六園とか忍者寺とか金沢城跡(金沢大跡でもあり、廃墟だった)に行ってきました。そして金沢は海が近い、ってことで夜は日本料理店で豪華に刺身&鍋を食べました。おいしかったなーー。(それに、やっぱり名古屋より割安でした。) そして夜は巨大「サウナ及び宿泊施設」に移動して、そこの風呂に入ったあと、全自動宅麻雀ルームで四半荘。(金沢大で打つのも捨て難かったが。)ここで、俺は小四喜字一色イーシャンテンまでいきました。配牌は「白発中東東南南西北あと両面メンツだったか」でした。国士かな、と思いましたが、左の親鶴から東・南と出ましたので、東東東南南南と鳴いて、役牌ふたつなので混一にいけます。まーまー対子ができました。混一はあきらめました。みんな、何の色だろう、っていってましたけど、無色です。そして、ぬるいTT本から中も出て、中中中と叩き発を切り(南を鳴くときに大三元ができなくなって悲しかったです)、手の内は「北北白西」となっていました。みんな発が切れるって大喜びです。一枚ずつ、ぼろぼろって出ました。ここで自分は北をつもるか鳴けるかしたとき、白か西のどっちを切ろうか考えてました。当然白でしょう。しかし、不運にもM本に「北西」と押さえられ、右のTT本が「白白」と持っていたので、左の鶴が親で安くダマ平和をツモあがってしまいました。それでもまだ山には北と西がごろごろありました。これはナイスカットですね。 この日、このあがりを逃したせいか、少し負けてしまいました。 そこの駐車場で仮眠をとったあと(これもええんか?!)、帰路につきました。
 三日目:三日目は、金沢を出発、琵琶湖周りの帰り道で、河野というド田舎の道の駅によりました。昼だったので、日本海がとてもきれいに見えました。対岸の出雲の方の半島がうっすらと見えて、あの景色はとてもすがすがしくて麻雀がやりたくなりました。道の駅の建物の中に入ったら、あるではありませんか。椅子付き四人掛け正方形テーブルがいっぱい(笑)! まるで我々を待っていたかのように。マットがちょうどよくおける大きさで。で、二半荘やりました。ここでは順当に勝ちました。 帰りの琵琶湖ルートは残念ながらほとんどが暗い時間帯に通ったので、琵琶湖はよく見えませんでした。それに、そんな時間(午後8時とか9時とか)でもうどこも開いていないので、旅行の反省をしながら帰りに一宮のCat's Cafeに寄って帰ったまでです。(そんなころに部活の電話やらがかかって現実に引き戻されたのでした。)
 次は冬に四国だ、と言ってましたけど、どうなるかわかりません。

(02/12/1999、旅行報告メールを編集)

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【近畿麻雀研修旅行報告05/月始/1999〜05/上旬/1999

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 麻雀研修旅行第2弾です。第一回と同じく、TT本、M本、俺、鶴Dのメンバーで、鶴Dの車で行きました。出発地点は名古屋。すべて一般道のみで、車で泊まって宿代を浮かし、その分うまいものを食おう、というコンセプトはかわりません。また、移動はすべて道の空いている深夜にまわし、昼まで寝て、午後観光・麻雀・豪華な晩飯、深夜また移動開始、というスタイルも守りました。もちろん必要な荷物を積んだあとは雀牌とマットを積まれてました。
 原案は四国制覇でしたが、日程の都合で名古屋→三重経由で奈良→大阪→神戸→京都→名古屋、と行ってきました。
 大阪までは夜通し移動でした。大阪をガラ空きの深夜に通りました。また帰り通るから、ということで、深夜の大阪城を横目に素通りしました。
 神戸市内に入ったのは4:00amくらいのことでした。意識の怪しいdriver:鶴の意識を、同じく疲労限界助手席乗務員:kcoは声をかけることによって保ちつつ、寝る場所を探しました。 神戸市街地まで来てしまったので、大型駐車場のあるところがありません。昼までのすこやかな眠りを、公の人々によって妨げられたくありません。で、休日ということを意識して、袋小路になって入り口のある学校の側面にあった坂道に停めました。(泊めました。)死んだように寝ました。
 朝、「ゴン」という音でみんな目覚めました。起きて見てみると、前の車が我々の乗っている車に大接近してます。どうやら、坂道を転がってぶつかってきたようです。一瞬我々の方が(寝転がってニュートラルに入ったかサイドブレーキ引いたかして転がってやっちまったか)と思いましたが、相手が謝ってきました。キズが見当たらなかったのでその場で事無きとなりました。ていうか、こんなこと書いて何になるんだろう。
 予定より早起きしたので、名古屋では聞いたことのないファミレスで不満足な味の昼朝メシを食ったら、昼から街を散策しました。
 我々の体内の麻雀ホルモンも過剰分泌気味です。我々は麻雀研修旅行の目的を達成するために、麻雀をやる場所を探しました。神戸大に行こうかと思いましたが市街地より少し遠かったので、とりあえず街中を歩いて探しました。 図書館を登って気がつくとオオクラヤマ公園にいました。大きな公園です。図書館の上から丘に続いてあるなんて、なんて素敵な公園なのでしょう。ちょっと歩いたら、我々は阪神大震災のものであろう仮設住宅のが立ち並ぶ一角を発見しました。もうあの震災からは9年くらい経っているはずなのに、まだあったのです。ほとんど誰も住んでいる気配は感じませんでした。「ここが噂のあれかぁ、どっか空いてて自動卓が置いてあったりしないかなぁ」と口ではいいながらも、我々は人間のクズではないので(震災は大変だったんだなぁ)と心中を痛めていたはずです。 そのときは、この日の麻雀のことを文章にするのはとても避けたく思ったのですが、あれから一年くらい経とうとしている今となっては、ひとごとのように書けます。 我々はそのオオクラヤマ公園に、ふつうの公園ならたいていあるだろう、子供たちが遊びくつろぐ「遊戯のスペース」を見つけました。すべり台、アスレチック、そしてそこには石の机と椅子があるではないですか。三つぐらい石机がありましたが、二つはホームレスの方々が寝てたりしてます。我々が残りの空いているひとつを調査すると、なんと、その石の机はマットがぴったり置けます!が、ハトの糞がちょっと落ちてていやです。さらに、どの石机にも石の椅子は三つしか備え付けてありませんでした。「ここの設計者は麻雀をやることを考えてないのか?」と文句を言っても、「きっと設計者は三麻が好きだったんだろう・・・」と言われてみな納得しました。「どうする・・・」我々は真剣に悩みました。 「! そういえば、さっきこの公園を通ってくるときに粗大ゴミ置き場があったよな・・・」 ・・・我々は仮設住宅の前まで戻り、粗大ゴミ置き場を見ました。残念ながら使えそうな椅子は捨ててありません。 しかし・・・「この石油ストーブはどうだろう?」と一人が言いました。 頑丈でよさそうです。 石机・椅子のハト糞を避けるために買出しを兼ねて公園前のコンビニに行き、あわせて新聞を買いました。
 公園に戻ると一人が雀牌マットを持ち、一人が買い出したコンビニ袋を四人分持ち、二人がストーブをえんやこら運びました。  そして、やっとのことで我々はこの旅行の最初の麻雀が打てたのです。 天気のいい春の陽気でしたので、ハトがぽっぽこぽっぽこ脇で遊んでいるのを見ながら打つのは、我々にとって皆が初体験のいわゆる「青空麻雀」でした。「ハトは平和の象徴だよなー ・・・ピンフを二飜にでもするか?」「やっぱやめよう」とかいいながらも、kcoは神戸市街地の公園で麻雀をすることにかなり抵抗を感じていました。ところがどうでしょう、麻雀をはじめたとたんにまわりは何も気にならなくなり、まったくいつも通りの心境で手牌を倒している自分がいるではないですか!これは四人が四人とも感じたことでした。 我々が集中して麻雀をしていると、さっき見かけた犬の散歩をしているおじさんがやってきて笑顔で話し掛けてきました。「さっき大変な思いでストーブを運んでいたのはこういうことなのかぁ」と。「ええ、まぁ・・・・あそれポン・・・」我々はそれ以上何も言えませんでした。おじさんは「がんばってな」と言ってどっかへいきました。
 公園で麻雀をしていたら日も暮れていい時間になったので、あとは神戸の中華街を観光して晩飯を食いました。あそこは観光者にとって最高の場所です。そういえば、雀荘がやたら多いのが気になりました。入りませんでしたが。
 神戸をその深夜出ると、帰路になります。我々は大阪で力尽きて、大型銭湯に入って寝ました。その夜に、「翌日は大阪をぶらつこう」という予定でしたが、日程を縮めたい研修員が二人いたので、大阪観光はパスすることとなりました。
 早朝大阪を出て、昼前に京都に着きました。この日も休日です。我々はまず、麻雀をする場所を探しがてら大学を見学しました。なぜなら大学とは麻雀をするためにある場所だからです。 K都府立烏賊大学は、我々の学校よりきれいではあったものの休日はすべての扉という扉の閉まった、勉強する環境のない学校で残念でした。 我々は次に、K都大学に本学の方に行きました。K都大学は歴史があるだけあって、校舎は古いものが多かったです。そして、すべての学部のことを考えると結構な広さでした。理系の建物は封鎖されているところと人が結構いるところが多かったので、文型校舎まで流れつきました。 どうやら法学部らしきところの地下の廊下に、机と椅子とがある豪勢な休憩くつろぎスペースがありました。 二手に分かれてぐるりとまわりの教室を歩くと、休日なので誰もいないようです。国際交流部、とか国際政治研究部、とかの立て札のある部屋のひとつに、麻雀牌とマットが「麻雀しっぱなし」といわんばかりに置いてある小部屋がありました。誰もいないので暗い(地下なので)ながらもちょっと見てみると、どうやら純全三色イーシャンテンの南家がタンピン三色赤1の西家に振って終わったようです。「どこの大学もやることはいっしょなんだなぁ」「やっぱり大学は麻雀をするところなんだよ」とみんなうなずきました。
 我々は廊下の休憩所でやることとしました。牌とマットを机の上に開けたとき、ふと椅子の上に動かない黒ネコを発見しました。声をかけても動きません。・・・死んでそうです。でも麻雀するためには彼にどいてもらわねばなりません。とりあえず場決めしました。で、一人がじゃらじゃらとやったら、突然ネコが起きてめんどくさそうに歩いて行きました。生きてたようです。麻雀をするためにどいてくれるなんて、さすが大学に寝ているネコはよくわかってます。  東3くらいで、学生っぽい人が二人くらいきて文句を言われました。「司法試験の勉強があるから、他のところでやってもらえないかな」といわれたので、場所を移すこととしました。
 しかたないので、さっき見た国際ナンタラ部の隣の小部屋でやることとしました。置いてある麻雀牌とマットは奥に丁寧にどけて、我々の持ってきたものでやることとしました。やりながら、「なんていい環境の部屋なんだろう。この部屋のサイズといい、机の大きさといい、まさに麻雀をやるためにあるとしか思えない。」とみんなで話しました。まったくその通りで、ちょうどゆったりと麻雀はできるけど他事はできない、というつくりになっています。本棚には「経済がナンタラカンタラ」とかの本がごくわずかに置いてありましたが、きっと誰も読んでません。
  ・・・・と、南3くらいで人が来ました。バタン、と扉が開いて我々くらいの歳の男性とみんな目があいました。沈黙の後、彼は「あ、いいです・・・。」とつぶやいて扉を閉めて立ち去りました。
 「なんかまずいかなぁ?」
 「でも『いいです』って言ってたよ。」
 「何か問題があってももう南3だし、オーラスが終わるまで待ってくれるだろ
とか言って続行してました。
 ・・・と、またさっきの人がノックして来ました。今度はもう一人います。我々が黙って見つめると、彼が   「あの、奥のあれ取っていいですか?」
と言いました。我々はみながみな、
 ( あれって何だろう? )
と思いながらも当然、
 「いいですよ」
と言いました。
 彼らは我々の脇を狭そうに通っていくと、えっちらほっちら奥にどけられた麻雀牌とマットを運んで出ていきました。
 あれとはそれだったのです。
 「彼らは結局誰だったんだろう・・・」、彼らが去ったあと、我々は話しました。kcoの読みでは、彼らもこの小部屋を違法に占拠してやっていたんでしょう、きっと。で、休日二日目にまた来てやろうと思ったらさらにやってる人がいたから、場所を変えたのでしょう。 「休みの日なのに学校来て麻雀とは、冴えんなー」と鶴Dが言いました。「そりゃ俺らもいっしょだろ」と言ったら「俺らは旅行じゃん」と言ってました。確かに旅行は旅行ですけど、旅行中に麻雀こんなとこまで来て麻雀するのはいまさらながらどうなんでしょうか、少し考えてしまいました。
 麻雀後は、晩飯の場所を探しながら観光しました。京都の竜安寺だったかどこだったかは忘れましたが、とにかくお寺のひたすら広い庭園で、その中にある湯豆腐屋で湯豆腐を食べました。そこのお店は畳できれいなお茶屋、といったつくりでしたが、そこから見える鯉池のある庭園はとてもきれいな光景でした。我々は口をそろえて「ああ、こんないいところで麻雀できたらなぁ」と語りました。昔はお寺が麻雀やその他の賭博の同元をしていた時代があったそうです。今のお寺は違いますね。
 今回の旅行はみじかめなもの(みじめではありません!)でしたが、いま思えば有意義な麻雀研修であったとおもいます。次回は比較的長期に念願の四国か夏の長野縦断をしたいものです、あとできれば一日くらい一番疲れている日に温泉に入れればいいと思っています。

(03/12/2000記)
(03/24/2000改)

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【「麻雀サークルSinZ.和や」の歴史】04/10/2000〜10/31/2000

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 K_Co.の雀友に、SinZK(し○じか○や)という男がいた(いまもいる)。彼は、2000年3月の終わりにK_Co.にこう言った。

 「ただ漠然と打ってるだけじゃつまらん。このレートだと別に金銭的な執着も起きんし。年間でみんながどれくらい勝ってどれくらい負けてるかをつけようぜ。」

 K_Co.はそれまで、例えば1998年とかはみんなで狂ったように麻雀しつづける日々を送ったが、そのときの点数表の集計だけはつけたくなかった。なぜならば、現実を見た人間のなかから、麻雀をやらないことが最も賢い選択であることを認めざるおえなくなる者が出るのがこわかったからだ。最近負けてるなぁ、とか思っても、みんながそれを気にしなければ、実際に少々の金額が出費されている程度で、ふつうのほかの遊びをしているのに比べればたいしたことない。が、それが表沙汰になるのは、メンツマネージメント上たいへん不都合なことであるよう思われた。
 しかし、K_Co.的な予想では、我々の麻雀漬けの日々は、大学の都合上、2000年度でひとつ区切りになる予定であった。そこで、「今年でこんなにみんなで打ちつづけるのも最後だろうし、いっちょ記念の意味もこめて点数集計すっかぁ」という気分になった。

 そんなおり、し○じを自分のHPに載せるための偽名をつくった。「SinZ」。数学読みでなく、そのまま英語読みすると彼の名前になる。そして、点数をつけるからには「麻雀サークル」というタイトルでつけることとした。そして、サークル名は彼のフルネームをそのまま、それとした。 なぜならば、ほんの半年前に覚えたとかどうとかの彼は、そのころ「金子先生の本を読んだ。」といって破格に勝ちつづけるようになった、超大物ルーキーだったからだ。

 「麻雀サークルSinZ.K」の活動は、昼夜にわたりくりひろげられた。入会条件が一回以上SinZと打つことであり、あとは全く同じルールで打てば「公式戦」扱いとなり、K_Co.(事務代理→トータルトップの人が事務官)のノートパソコンの中のエクセルにその日の麻雀結果のプラマイが集計される。K_Co.がいなくても、後日点数表を提出すれば集計される。 だいたいはK_Co.とSinZのどちらかが「やるか」といって、M本や石#(昼の部)や、K_Co.の部活の後輩その他を集めていたことが多かった。
 そのころのSinZは、まさに「打ちざかり」であった。
 ある日、K_Co.が部活の終わるころにTT本さんと「今晩やるか。」となって、SinZに電話したら「眠いでどっちでもいいわぁ。んん〜、やっぱ今日いい」とか言われていったん切ったものの、その約一時間後にもうひとり見つかって、「やっぱあとはSinZしかおらんな。ダメもとでもっかいかけてみっか」とかけてみたら、
  「待っとったわ。いったん断った以上やりたい、いえんでなぁ。
といわれたこともあった。
 このサークルSinZKが活動中であったころは、同級生間にベタオリすれば勝てる、インフレルール三麻がはやっていた。これは中毒性が高く、「これしかやらん」と言っていた鶴Dや玉#他がいたため、サークルはメンツ不足が深刻だった。後輩:太TはK_Co.・SinZの次に多くサークルルールで打った。  後輩がテストに突入してメンツが少なくなったころ、「課外活動」「オープン戦」としてSinZと毎晩のようにフリーにいったこともあった。
 それでも、サークルの累積結果を公表する、ホームページもできた。(旧)麻雀サークルSinZ.K HP(現メモリアルページ)
 K_Co.サークル成績は、しばらくトップを走っていたが、自分でも感じる一年に一度来る絶不調期が5月から訪れた。すべてが裏目、しばらく負けつづける。しかしそれを抜け出してからは、単調増加していった。
 SinZのこのころのスタイルは速攻麻雀で、はげしいはやさで場を流しながらも危険なところは押さえるという強いスタイルで食っていた。勝ちつづけていたが、ウマが小さい(5-10)ルールなため、サークル成績の絶対値は目だって増えてなかった。
 M本は実家に電車で帰るために、夜遅くまで打てる日が限られている。K_Co.がM本のいない間にSinZとともにプラスを稼いでいると、M本が「明日の夜打とう。」といって我々と討伐しにくる。M本はK_Co.をトータル成績で追う移置にあり、特に差が100以内になったときなど、激烈な麻雀でK_Co.と闘った。あのときの麻雀は、K_Co.は忘れられない緊迫感と闘志の思い出で満ちている。
 石#もちょくちょく打っていたが、彼は昼向けの雀士で、夜は時間とともに雀力が衰退していく、きとくな人だった。昼はどうしても少ししか打てないため、彼はサークル内でついぞ実力を数字にかえないままだった。
 K_Co.の後輩のギワラやミパオ、びろせ や のん をSinZに紹介したが、SinZお気に入りの雀力であったようだ。 そして、もうひとつ下の太Tは、我々とともに打ちつづけ、強く成長したことだろう(きっと)。M本の後輩で硬式テニス部のM岡君を連れてきたもらったときに、彼が「部内の同級生にはほとんど負けませんが、世界の違いを感じました。」と言っていたが、彼はそっちの世界で打っていてはいけないレベルだった。

 しかし、終わりは訪れた。

 まず、その序曲として、SinZが大敗する事件があった。
 トータル成績でプラスの絶対値の少ないままだったSinZが、ある日、何連続ハコを食らった。その日は、同時に三卓立つ異常な盛況ぶりの日だったが、K_Co.がバイトで抜けて帰ってきたとき、SinZは後輩の中に「帰る。」と一言残してトんで帰っていったという。その最後の形も、誰が見ても「こりゃこれ勝負だわ」という牌であり、そしてきっちりトぶことに運命づけられていた。
 その日から、SinZは少々盛り返したものの、トータルマイナスの生活となった。
 そして休みが明けたとき、SinZは言った。

「もう、成績とかどっちでもいい。なんか、燃えるもんないかな。レート上げるか。」

 …K_Co.を激しい勢いで追っていたM本だが、ついにK_Co.がまくられる日がやってきた。その日から、サークルトータルトップはM本となり、M本がパソコンが使えないというのでやむなくK_Co.は事務官代理ということとなった。9月のトータルトップM本をHPに更新するまもなく、10月初頭、M本が-160くらいたたき、月の終わりにはK_Co.が+134でM本が-1のところで、すぐには追いつけない状態となった。そこでM本は言った。

「もう、K_Co.が俺のいないところで打って勝ちつづけることを考えると追いつきようがないわ。一度でもサークルトータルトップになれただけでもうええわ。」

 ついでに、ある日加トさんに言われた。
「あのホームページの成績表、鶴Dも言っとったけど、ありゃヒくって。K_Co.とM本以外誰も浮いてないじゃん。」

 …そしてその後、K_Co.はしばらくサークルメンバーと打たなかったが、その間に行われた麻雀の結果が届けられることはなかった。ついには、K_Co.が入っていない限りサークル成績表が更新される麻雀にならなかった。これでは、サークル記録はK_Co.の私物とかわらない。

 こうして、結果が届けられず形骸化したサークルは、事務官であるK_Co.が解散すべきであると判断し、サークル長SinZKとサークル参加日数の多い5人の了承のもと、10月31日付けで解散した。

 このサークルの最後の記録に、SinZ -32; M本 -16; うすひ -72; 打山; +120 とついているように、ここから、フリーに通い始めた打山が的確に勝ちを回収する時代が到来する。 が、この話はもうサークルと関係ない。

 K_Co.は、このサークル中盤で打ったSinZやM本との麻雀をとても貴重な経験に感じている。仲間内であれほどの精度で打てた麻雀はいままでになかった。そして、太Tの成長にも期待する限りである。
 サークルホームページは、「ありがとうSinZ和や」のタイトルのもと、記録が保管されている。が、K_Co.の手元にはより詳細なEXCELのデータと、デジカメで撮った写真があり、暇をみつけてこのページにメモリアルデータを追加できれば幸いである(SinZの希望もあって、写真は目に黒線を入れる←実際はネタだが)。

(03/02/2001記)

 
◎親にてクンロク出和がり(俺)

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 97年のことだったか。
 俺は南2局の親で、二連荘くらいしていた。そして、「六−九万」待ちの確定三暗刻を張った。「頭頭AAABBBCCC七八」とあるわけだ。符を計算して、出和がり4800、ってとこだ。しかし、右の打山が狂ったように万子を二つ鳴き晒した。万染めってとこだ。対面のM本は俺が張る前に六万を三枚ボコ切りしていた。と、俺は雀頭と同じ牌をツモった。あれ?何切るの?・・・って、これはもしや・・・。出和がり4800が96000なった。問題は七万と八万のどっちを切るかだ。どっちも右の万染めに当たりやすい。八万を切ってやった。右から声がかかった。「(ああ、当たったか・・・)」と思ったら、その声は「ポン」だった。これで七万はワンチャンスとなった。右に一枚入っているとしても、まだ余るかも。他に入れば、左の降りてるっぽいK藤を除いて出るか。まだツモ山は三列(三人の前)に残っていた。ツモも期待できる。八〜九巡ってわけだ。それから、色々な牌をツモった。北とか、いかにも単騎で待ってくれ、って牌とかもツモったけど、この七万で右に振ったらそれは意味がない。八万もツモった。しかしそれは右の鳴きで流れてきた牌だ。これで待っていたら左のK藤に押さえられてしまってただろう。ツモ山をめくる中、俺は振り込んだりツモられり流局したときにどんなリアクションをとろうか、なんてことばっか考えていた。あがれちゃっていいのかな、こんな暴力破壊原爆的な手を、特に狙ったわけでもなく、と思っていた。と、右から「七萬」と書かれた牌が捨てられた。「ロン」。あのとき、俺は麻雀をやっていて、はじめて心の底から笑った。
 それが今までの俺の最高和がり点である。クンロク。同じ単騎でもチートイドラ二ではない。
(10/28/1998)

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◎国士無双1(F村)

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 立直した親のM本は九ピンをツモ切りしたのです。俺も追っかけ立直しました。俺も九ピンをツモ切りしたのです。しかしそれはF村への国士でした。なんで〜、って、麻雀なんてそんなものです。これは、一昨年の早い時期の話です。


◎役満去ってまた役満(鶴D)

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 97年の夏頃だったか。鶴Dと俺と、あとたしかF村とK藤くらいで囲っていた。
 東場のはやいうちだったと思う、鶴Dは配牌小考をへて、チャンタ/国士捨牌がはじまった。5〜6巡目、俺が、手変わりの回数から、「全部入っていたらテンパイもありうるけど、鶴Dに限ってそんなことはないだろう」と思っていると、F村だったかK藤だったかが捨てた字牌に「ロン」。国士だった。
 俺が「はやいな」、というと、鶴Dはこう言った。「おー、こりゃすごかったぞ。 配牌で十種十一牌あって、二連続でこれとこれ、引いてきた。九種九牌で流そうか迷ったけど、やっぱこりゃいくでしょ。」 
 振った奴が「ひでぇ」とかさんざん言い終わって次の半荘に入った。
 と、鶴Dがぼそっとつぶやいた。
 「あ、さっきの、シーサンプターじゃねぇか。」
 確かに、さっきの最初の三巡の捨牌は、「二五8」とかだったから、考えてもみればシーサンだ。その時は、たしかシーサンを役満にしてやっていたはずだ。
 みんなで、「いいじゃねぇか、結局役満だったんだから。それもチョクって罰符も入ったし。」って言ってやった。「和がれんかったから糞アホだったなぁ」と鶴Dはコメントした。
 教訓: 遠くのシーサンヤオチュウより近くのシーサンプター
 シーサンプターを満貫にしていたなら鶴Dの行為は結果大オーライのものになるけど、役満にしていた分、気付かなかったのがへぼい。
 しかしそれ以来鶴Dが国士を和がった姿に見覚えがないのは、俺だけだろうか?(03/01/1999時点)


◎国士無双その他(色々)

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 十三面待ちはテンパイまでしか見たことないけど、国士の和がりは結構頻繁に見ている。鷲MIんちで九八年夏に三晩くらいやって、三晩とも三者三様の国士が出た。(俺は親で出和がりして最高点だ。)そんなもんの、結構できやすい役なのか。感覚としては、チートイを作るのと同じ難しさか。(作り方も山への読みも全然違うが。)
 ところで、十三面待ちをダブルにするのなら、国士をツモ和がりしたら、状況に応じて二回に一回くらいはフリテン立直すると思う。(立直は他家を降ろすため。)それで「8000, 16000」が「16000, 32000」になるのだし、十三面待ちだから他が和がらない限り簡単に和がれるだろうからだ。 さらに、国士十三面を現物以外フリテンロンできるというルールがあるのなら、和がらずにフリテンダマだ。 しかし、これをやって和がり損ねたら麻雀を一生やれない身になる。もしオーラスとかで国士ツモで逆転不可能なら、やってもしかるべしだが、それ以外ではやはり人間らしく和がるのがいいのか。


◎シーサンプター(青KI)

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 その日、青KIはツいてなかった。特にでかい手を仕上げる間もなく、ツモられたり、ときどき振ったりしていた。他のメンツは、たしか俺と鷲MIとS久間Lだった。十半荘くらい連続でやっていたときのことだ。(97年だったか。)
 その日、青KIは第一ツモで「和がった。」と牌を倒した。その声を聞いた瞬間、俺は(苦節麻雀うん年、ついに地和が出てしまったのか?! ・・・先を越された・・・ !積み込まれた?!)とか頭をよぎった。
 その手牌がばらばらだったから、九種九牌の間違いかな、と思ったけどんなわけもなかった。
 青KIが「シーサン。」とつぶやいた。
 青KIが全然つかないのはわかるが、ここまでツカンと麻雀もこうなってしまうのか。
 そのときは、シーサンが役満か満貫か決めてなかった。仲間内の麻雀だし、もともと決めてないなら有利な方にとってやるべきだろうし、そのとき自分が勝っていて青KIがへこんでいたのもあって、俺は役満でいいと思った。
 確か鷲MIだったと思う。「シーサンは満貫だって。それ以外聞いたことない」と言い張って、それは満貫になったと記憶している。
 青KIはどっちでもいいって感じだったけど。
 そして、俺の記憶ではそこで役満だったら鷲MIがトぶという事実があった。
 俺も含めてみんな、自分の都合でしかルール考えてねぇじゃねぇか。(ま、それだけ真剣に麻雀してたってことなんだけど。)その日を境に、俺は「ルール設定表」の必要性を感じるようになった。
 S久間が、「いつもなら巨こむの張り具合で手の状況がわかるのに、配牌で和がってたらわかんねぇよ。」とたたえていた。たしか、そのシーサンの和がりを転機に、青KIの独走半荘が続いたのも記憶している。
 そういえば、シーサンはあまりにつかないときは、その雀頭すら存在しない完全なシーサンで、結局和がれないというのだが、それはまだ見たことがない。(03/01/1999)



 
◎マネ満の恐怖

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 1996年か7年くらいからだろうか。自分をとりまく麻雀に、おかしなルールが普及しはじめた。
 「マネ満」とは、自分の上家の捨牌と同じ牌を決められた枚数だけ同じように捨てられれば点数が入ってくるという、はじめて聞くとなんともおもしろそうなルールだ。
 しかしこれがまたしっかりと統一したルールがないので、どうやってマネ満が成立していつ支払うのか、とかが全然曖昧なのだ。
 もはや数年前のことになる。こんなことがあった。
・・・ ・・・ ・・・
 青KI、T日、S久間、とかで打っていた。その日青KIとT日はツいていなかった。T日は前半荘くらいで役満を振り込んでいた。
 あれはたしか南場のことだったか。20000点ないくらいの親だったか。俺がトップで、T日と青KIはツモられ続けて時に振っていた。
 その日は「マネ満;あり」でやっていた。青KIの捨牌は彼の下家のT日に三枚マネられた。四枚目でリーチだ。(ここで「リーチ」と発声しなければならないルールを知っているが、この日はそれは全く採用していなかった。また、上家だけマネの対象になるルールと自分より上家なら誰でもマネの対象になるルールの二種類がある。)
 青KIは余裕でマネられていることに気付いていた。ある程度手を崩して四枚目を切ったようだ。確か字牌の対子落としだったかな。
 T日は合わせ打ち。リーチだ。
 しかし青KIは場に三枚目にあたる字牌を切った。残り一枚だ、こいつはマネられまい!
 しかしT日は合わせ打ち。!!!・・・おいおい、配牌でモチモチだったのかよ。  ・・・満貫だ。
 ここで、もめた。これで、即満貫を支払ってT日の和がり扱いなのだろうか?
 みんな(含ギャラリー)は珍しいものが見れたといわんばかりに、「5枚目で跳満。6枚目で倍満。7枚目で三倍満。8枚目で役満だよ。」と嬉しそうに(←鬼かこいつら)いう。
 問題なのは、「ここで和がるか見逃すかをT日が選択して、5枚目がマネられなかったらチャラ」なのか、「(マネ満はまったくのおまけボーナス扱いで、)支払いは局の終了時で、マネたとこまでは点数を確保しながら続いていく」のか、ということだった。
 みんな、「どうせもうマネらんないし、(後者)な方でいいんじゃないの。」といって、結局そうなった。 しかしその決断には様々なお家の事情があったことを俺は忘れていない。その時点でのトップは自分だった。みんなただ単に「今こんな糞みたいな和がりで流されちゃ困るんだよ」って思ってたんだろうな。で、青KIとT日はマネ関係で手がずたずただろうし、自分はまーまー和がれる手が入っていたから、「いいよ」となった。 青KIは「おいおい東京ではそんなルールじゃねぇ」といっていたが、「ここは名古屋だ。お前も名古屋出身なら名古屋のルールは知っているだろう」という意味不明な理屈で従わされた。  結局、俺も含めて、みんなやっぱり自分の都合でしかルール考えてねぇじゃねぇか。(ま、それだけ真剣に麻雀してたってことなんだけど。)
 青KIは5枚目を切った。真ん中らへんの牌だったっけ。
 「あるんだな、これが。」 T日は合わせ打ち。 ・・・跳満だ。
 みんな、「おおおぉぅ」と声をあげる。
 青KIは半ばヤケになりながら6枚目を切った。
 T日は合わせ打ち。 ・・・倍満だ。
 みんなの顔色が変わる。「おいおい」
 そこで俺は気付いた。(これだけで俺はトップをまくられてるじゃねぇか。)急にもっと点数が必要になった。立直した。
 青KIは7枚目を切った。
 !T日は合わせ打ち! ・・・三倍満だ! 青KIがハコる!
 このままT日にトップで終わられるとみんなつまらない。みんなは励ました。「青KI、まだ期待はある!この局でお前が24000直にたえられるだけの点数を和がればいいのだぁ!」 みんな心の中で思っていたに違いない。「(どやって?)」
 誰かが振ったんだったか、ツモったんだったかよく覚えていないけど、確か俺が和がった。
 地獄の嵐は過ぎ去った。
 青KIは24000払ってトんだ。俺の和がりを入れてもT日のトップには及ばなかった。
 終わったあとに、青KIの手牌とT日の手牌を見てみたら、13枚中10枚くらいが同じ牌だった。俺が和がっていなかったらマネはさらに進行していたようだ。確か、役満かダブル役満くらいまで。・・・・おそろしい・・・・。
・・・ ・・・ ・・・
 その件があっていらい、我々はマネ満を採用しなくなった。ありゃ麻雀じゃないよ。
 そして、ルール一覧表にマネ満の項目が入っていることは言うまでもない。
(記:05/28/1999)


九蓮宝燈未遂

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 1997年くらいのことだったか。プンリーの玉#さんはラス目でつっぱっていた。マン染めしてそうだ。自分は親の二着でトイトイ系インパチをさらして張ってて、引くに引けない場面だ。鶴Dが立直をかけた。その瞬間に玉Iさんが南で振り込んだ。南単騎のリーのみだった。玉Iさんは南切りテンパイの九萬で高め九蓮だった。へーっ、と思って自分の次のツモを見てみると、いらない九萬だった・・・・切ってたかも知れない。このような役満クラッシュを鶴Dが成した場面を自分は数多く覚えている。

 

九蓮宝燈の噂

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 とうとう仲間内で藤#が九蓮を和がったらしい、という速報が来ました。振ったのはF村だったそうです。
 翌日から、藤#に会いません。どうしたんだろう、と思っていると、なんと彼ははやり目にやられて全治一ヶ月だそうです。(100%実話)
 翌月に復帰した藤#に会いました。「ずっと両目が見えなくて悲惨だったよ。ラジオ聞くしかすることなかった。」と言っていました。
 九蓮九面待ちを和がると、×××というとても恐い噂があります。命にかえてでもそれを和がってみたいと言っていた雀士を多く知っていますが、やっぱ命あってのものだねですよ。
 彼は「せめてテスト中じゃなくてよかった。」とも言っていました。テスト中に麻雀するのは避けましょう。いや、やってもいいですけど、せめて九蓮は安目で和がって清一にしておきましょう。


 
◎緑一色未遂

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 Aヅマ先輩が發を鳴いている。でも三色がまばらに切られているので対子系のようにも發のみにも思える。鶴Dから立直がかかった。が、つっぱる。ということは先輩の手は高い。しかし他の役牌はすべて切れているし、ドラは自分が二枚ある。ドラしゃぼのトイトイでここまで突っ張るだろうか?と思っていると、鶴Dが安手を和がった。先輩は手を公開してくれた。緑一色テンパイだった。そんな馬鹿な。二索(二列目)と六索(三列目)が捨ててあってどうやって作ったんだ。他の索子もばらまいてある。もちろんフリテンじゃない。その和がりに八索があった。それは読み上和がり目だったらしい。八索は対子でしかつかえなかった。鶴Dに聞いたら、一枚持っていて次切ろうと思った瞬間に対子ったのでそのまま立直をとったという。もちろん、鶴Dも自分も緑一色とは夢にも思わなかった。なんて悪運の強い鶴Dだろう。先輩の手は緑一色を狙わなければ何回でも和がっている。これは、役満警戒におけるいい教訓になった。


◎東一局の奇跡

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 その日、TT本さんは東一局で親マンを振った。(-12000) 続く東一局一本場:TT本さんは立直をした(-1000)。 ・・・親に追っかけられた;TT本さんがツモ切ると、一発; 親マンを振った。(-12000と一本付) あれ?
  25000 - 12000 - 1000 - 12300 < 0
ハコった・・・。」 ・・・その時の親はF村で、俺とSin士さんは-5ずつついたものの、いたたまれなかった。麻雀とはこんなにはやく終わるゲームだったのだろうか。(ちなみに、十分くらいで終わったので、F村の時給をレートから計算すると、18kえん/時になる。)
 次の半荘の東一局、TT本さんは早々と9索やら1ピンを続けて鳴いた。俺は思った、「混老トイトイ?」 手の内に字牌が対子った。そして河の傾向からして、(これは、ゴミなトイトイっぽいな。あとは清老。)と思っていると、三つ目の1索(だったか)までポン。いくら前局の悲劇の人とはいえ、ちょっと鳴かせすぎかな。(・・・TT本さんの交感神経興奮度からいって、あんま興奮してないところからして、これは糞なトイトイなんだろうな・・・)と思いながらもさすがに危機を感じて、TT本さんへの安牌を切ったら、それが親のSin士さんへの振り込みだった。TT本さんが「糞ぉ」といいながらベロんとあけたそこには、!「一999」!。清老じゃねぇか。 ・・・一萬はF村が一枚止めていたけど、山にまだごろごろあった。
 おそるべし、東一;二局ぶっ飛びの直後は幻の役満テンパイかよ。やってくれるぜ、TT本さん。
 結局その渾身の手もあがれなかったわけで、その日、TT本さんが深い沼へと沈んでいったのは言うまでもない。
(03/13/1999)

◎あんたそりゃぁ・・・

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 その日、TT本さんは平然と親で打っていた。八巡目くらいだろうか、五萬切り立直した。三萬こそ数枚見えているが、他のことからしても萬子の下、それも「一−四萬」待ちが本命だ。
 それからニ巡くらいだろうか、彼は「カン」といって嶺上牌をツモったら、また「カン」、そして次の嶺上を持ってきたら、なんとまた「カン!」、まさか和がるんじゃねぇだろうな、と思っていたらさすがにそれは捨牌に置かれた。
親: TT本
 「■■■■ 發發發發(暗槓) 3333(暗槓) 八八八八(暗槓)」 ドラ なんかとなんかと3索
というえらいことになった。見えてるだけで9飜ある。
 ここで俺は、(もし三暗刻の両面なら四暗刻への手変わりがあるから立直はかけまい。四暗刻単騎ならダマが当然だから立直はかけまい。つまり、彼の手はシャボの一点だ。)と読んだ。ツモられると四暗刻だが、いけそうにない生牌を複数掴んだので、とりあえず一枚場に切れている南の対子をおとしてまわした。
 と、SinZがその日嫌なことでもあったのか、バーサークして勝負しまくって一発でツモってドラドラドラドラドラドラドラドラドラ・・・と三倍満になった。
 そしてTT本さんが泣きながら明かしたその手は
 「一二二二 發發發發(暗槓) 3333(暗槓) 八八八八(暗槓)」 ドラ なんかとなんかと3索
・・・
彼は
「四が3枚切れてて三が3枚と一が2枚見えてる。親だから三暗刻で和がっても十分だと思ったよ。」という。
んなばかな。四暗刻単騎を数牌の地獄単騎で立直するなんて、それも五切り立直で。それも待ち牌は激少ねぇ。あと、三暗刻で和がっていいんなら、三暗刻發の出和がり9600で十分じゃないのか?立直したら打たんぞ!(SinZはバーサークしたが。)・・・しかし、三暗刻發の9600と四暗刻単の96000との違いに耐えられるのだろうか? やっぱいい単騎に振り替えてダマだよなー。対子落としを狙って立直もあるけど、やっぱ黙ってツモって二人トバシじゃないんすか?
 でも四暗刻単騎立直は意外だった。もし南単騎だったら一生で一番高くつく降り打ちこみをしたこととなっただろう。
 ところで、もし三つ目の嶺上で「二萬」を「カン!」してさらに「一萬」で「ツモ!、やったぜ!!! 四暗刻単騎四槓子だ! 發と立直と嶺上ツモとドラドラドラドラドラドラドラ・・・までついとるわ! 48000オールこれはぁ?! 三人トビだな」 と言ってくれれば、静かに手を差し出して4000点を要求する三人とともに、彼のチョンボ王の名は後世まで語り継がれたことだろうに・・・・。(とくにこの時点では彼に「待ちの変わる立直後のカン」というチョンボの経験がない。チョンボ王として彼は「おそらく待ちの変わる立直後のカンだけが俺のやったことのない最後のチョンボだ。やりてぇ。でもなかなか機会がない。」と言っている。)

 この日、彼は四暗刻聴牌をあと二回した。どれも和がれなかったが、ま、プラスで帰ったからいいじゃん!

(03/24/2000)
(04/04/2000訂)


◎麻雀で消える商談

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※鷲MIがパソコンいらんから買ってくれ、という。
その下取りの件について、買うべきかどうか他人にメールで相談した。
これは、その人への事後報告メール(02/28/1999送信)から抜粋・編集(02/12/1999)したもの。
ちなみに、鷲MIの家は自宅から遠いので、車で行って運ぶのが大変。

>・・・様へ
>  先日は相談にのっていただき、ありがとうございました。大変参考になりました。結局、今日の朝、電話で鷲MIに、彼のパソコンを下取りとして買うことに決めたと告げました。ところが...
> パソコンの車への搬送の時間を考え、その日の家庭教は20時を20:30にずらし、麻雀は17:30に早めにきりあげたのですが、「三万五千はちょっと高い。三万が妥当だ。でも、ま、いっか」と朝もらしてたのと、俺が役満一回に立直ヅモ一発ドラ3親マンを続けてあがり、さらい続く局でも勝ちまくって総合でボロ勝ち(5千●ゲット←レートが低い!)したこと、(ボロ負けはS久間Lで、鷲MIは千●の出費だったのだが)そして鷲MIが疲労していたことにより、鷲MIが「やっぱパソコン売るのやめた。めんどくさい。搬送がめんどい。」「搬送の時間つぶして麻雀やろう」といってきたので、購入はやめになりました。
> 今後も・・・・(以下略)

・・・その後打ったことは言うまでもない。
(※注 ●は伏せ字)

 

◎変態メール

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 ある日、TT本さんは無性に打ちたくなったらしい。俺のとなりで、「打ちてぇな。メンツ集めるか。」といって、携帯でメールを打ち出した。彼と俺、あとは二人だ。あと一人なら個別に応対するが、あと二人となるとかたっぱしから連絡することとなる。みんなから連絡が帰ってきたが、SinZからの返答だけない。結局、俺とTTとあと一人は見つかったがもう一人がいない。返答のないSinZに電話したら、「ああ、ええよ」となって、やることとなった。
 麻雀してる最中、何気なくTTと俺が「SinZ、メール(携帯の)受け取ったとき忙しかったんか?それともメール見てない?」と聞いたら、「はぁ?そんなん受け取ってないぞ」という。メールセンターが混んでたんだろうか。
 しばらく打ってて、SinZが「ああ、そういえば今日変態からメールが届いたけどな。」という。
見せてもらったら、
 『やりてぇ。ムラムラする。』
と書いてあった。
 「・・・それ、TT本からのメンツ集めのメールだよ・・・」
どうやら、TT本の電話番号が電話帳に登録されてなかったらしく、勘違いしたらしい。
爆笑ものだ。
 それにしてもTT本ももうちょっと誤解のないメール送れよ・・・。
 

◎櫛Y先輩御卒業記念牌:部内麻雀大会@カプチノ

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 とある大学のとあるソフトテニス部には昼夜を問わない「練習」が代々あったらしい。もちろんテニスの練習ではなく、盲牌の練習でもなく、麻雀の「練習」だ。(ようするに麻雀してたということ。)
 毎日昼間に学校のそばのカプチノで打っていたKま先輩たちの話や、もっと前の話ではテニスの相手を探しににカプチノにラケットをもって人を探しに来た人の話や、麻雀に関する話は多い。
 筆者の三つ上の櫛Y先輩は、この部で麻雀に負けたのをはじめとして、バイト代をつぎ込んで麻雀の修練にはげんだという。そして彼は麻雀の神様になったらしい。 K_Co.が入学したてのときに打ってもらったが、麻雀の恐ろしさというものを教えてくれた。 が、それ以降は彼は三麻専門となり、四麻はほとんど打ってもらえなかった。
 その先輩が卒業される折に機会あって我々を集めて四麻を打ってくれたので、その結果をここに残す。
(左の欄はウマ。10-20で、トビ罰符が10)
 
くし あず K_Co. ギワラ びろセ のん みぱお 太T びろキ
10 -4 20 45 -10 -18 -20 -23
10 4 -20 -18 -10 -14 20 28
-10 -14 10 -2 20 45 -20 -29
20 49 -20 -26 -10 -23 10 0
20 26 -10 -2 10 1 -20 -25
30 41 -10 -10 10 -1 -30 -30
20 27 -10 -6 10 -5 -20 -16
-20 -9 20 25 なし -8 なし -8
-10 -4 -20 -27 20 33 10 -2
-10 -7 -20 -24 10 2 20 29
20 26 -20 -11 10 -4 -10 -11
-10 -6 10 -5 20 28 -20 -17
10 0 -20 -15 20 29 -10 -14
20 37 -20 -21 -10 -14 10 -2
20 33 -20 -23 10 5 -10 -15
-10 -5 20 24 -20 -16 10 -3
10 3 20 22 -10 0 -20 -25
-10 -6 20 23 10 -1 -20 -16
10 -20 -10 -24 30 74 -30 -30
70 148 -10 -1 50 12 -20 -51 -50 -67 80 145 -20 -48 -50 -58 -50 -80
218 -11 62 -71 -117 225 -68 -108 -130

◎登場人物紹介(プライバシー侵害のため、匿名にしてあります。)

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【 俺 】 K_Co.(東風荘HN兼) 、 kco、 F. Kawachi.  、 川地
 このページの管理者。
 名古屋生まれで今は名古屋にあるN大学(the medical department)に在籍。
 中学くらいから麻雀を始めるが、高校卒業までは停滞。 大学で97〜98年度に点3でやりまくったのをきっかけに、勝ち金を麻雀書籍に充てることで再生産を繰り返す。 98年下半期、周りとの差と学校の多忙化で麻雀頻度が下がっていくのを思って、修得したことを残す意味と向上させる目的で「麻雀学」を執筆。99年夏よりネットで知り合った雀荘l9HのOFF会に顔を出すようになり、2000年幕開けの大会で優勝した。「麻雀は適当なところで単位をそろえて卒業したい」と目標があるが、たぶんずるずるとやり続けることとなろう。なぜならば麻雀を卒業するために必要な単位は無限大だからだ。
 高校時の営業を 「KAWACHI Co.」(カワチコーポレーション) [略して「K_Co.」「kco」(けーこ)] の名でやっていたので、それをそのままハンドルネームとした。K_Co.は、情報を生産する個人的仮想企業だ。
 PCについては中学時代から、PC-9801FX→MacLC475→MacPerforma5280→FMV-BIBLO 5100NC/S→Gateway2000という遍歴を経て各機種が一通り使えるし、ブラインドタッチもできる。
 ネット環境は無料プロバイダによる自宅メール送受信及びHPアップロードと、学校でのWEB巡回・東風荘。無料でもらったメルアカしか契約のないネット貧民。でも2000年から携帯によるモバイル環境を整備した。ノーパソが壊れるまで使える。
 パソコンの中古ソフト専門店勤務(バイト)、家庭教師勤務、軟式テニス部副所属(雨連担当)。
 愛車はVolvoのV40(緑)。
 マニアなゲーム: ぷよぷよ・・・周りで対等に戦える相手が二人しかいない。

【 M本 】 木公本正弓尓 、 雀皇帝松(東風荘HN;もう使ってないかな?)
 大学の同級生。高校も同級だったりする。
 高校の時から雀荘に通っていたエリートだ。その打ち回しの巧妙さは群を抜く、学年最強を自称する雀士。仲間内で打ちまくりの時期、フリーで打ちまくりの時期(試験中はとある雀荘で週間30半荘賞をもらって勤勉な学生ぶりをみせた)、禁麻の時期、三麻しまくりの時期、様々な時期を経て、K_Co.として最も恐れるバランスの雀士となった気がする。なぜなら彼は、日々の麻雀に常に反省と発展があるからだ。
 2000年度硬式テニス部主務で、鶴Dとか亮ーとかと同じ。そこの先輩やら後輩と部室で打っている姿もよく見る。
 ここ(Click here to go!)に、彼に頼んだ麻雀に関するレポート(長文)が収めてある。続編も書いてくれるようだ。(まとまってきたら、「投稿者ページ」を作成し、そこに移転・収録するつもりです。)

【 鶴D 】 カモ留(東風荘HN) 、 ハコ留[ハコドメ](ハコったとき)
 大学の同級生。筆者と車が色違いだったりする。
 危険牌を極力勝負しないので振り込みが少なく、状況に左右されない堅実な麻雀は一定の勝率を確保している。が、役満振り込み経験の多さは人に負けない。他人が役満手でも面前だとそれに気付かずに安手立直をかけることが多い。だから偶然役満を阻止することも多いのだが(余剰牌で待っているので和がりやすくはあるのだが)、ひとたびやっちゃうと完成させて上で放銃に至る。 特に、初心者からカモるのが抜群なように思える。俺やM本がその打ち筋を見ていると、「はぁ、また彼狙いなのか・・・」とため息のでるような露骨なカモリ麻雀である。
 その生活は一貫して「ま・ぷ・ぺ」(麻:麻雀、ぷ:ぷよぷよ、ペ:○ニス[テニスと×××ー])で完結しているといわれる。自称「おナルシスト」。筆者とぷよぷよのできる二人のうちの一人。最近、「ぷ」のバランスが著しく低い。
 昔から今まで常に打っている。東風荘も学校でのみやっていた経験がある。
 昔、彼の下宿先で打つことも多かったが、駐禁はとられるわ(それも二回も)、彼が大家に怒られるわで大変だった。今は全くそこではやらない。
 硬式テニス部キャプテンで、M本とか亮ーとかと同じ。昔は先輩とだったのに、最近は部室で一年生をボコにしている姿もよく見る(もちろん麻雀で、だが)。
 2000年からは三麻専門となったようだ。理由は三麻では勝てるから、というものらしい。忙しいというのもあろう。

【 TT本 】 たけもち○ぼすか○ろま○こ 、 でかたけ 、 虚根(故意の誤字)
 大学の同級生。部活も同じだったりする。車も同系統だったりする。
 たけが186cmと18cmという巨身である。
 彼はホンの去年に我々とはじめて麻雀というものをやったとき、ルールもおぼろげで「ツモ發。」といったらトイトイ(知らなかったらしい)がついていて、おまけに面前だったので、四暗刻をツモった。
 彼が「麻雀やりてぇ〜」というのを受けてやりはじめると、一番最初に彼が「頭が う゛ぉっーっとしてきたぁ〜」「やめてぇ〜」「何か食いてぇ〜」と言い出すことが多い。
 テンパイしてめんどくさくなったら立直をかける。ときどき体調がすぐれないと鬼のようなツキを見せて、リンシャンツモドラ2とかを余裕でやってくる。カンチャン・ペンチャン・意味のない単騎などをツモることも得意としているが、得点申告を50%の確率で間違える。
 その本領はチョンボによって発揮され、多牌・誤ロン・誤ツモ・同順内フリテンロン・少牌・リンシャン牌取り忘れなど、各種チョンボをひととおりやっているチョンボ王だ。しかしそのチョンボのあとは鬼ヅモあがりをしてなぜか失点を回復することが多い。多く打っている。 日々成長を見せる敬虔な麻雀学徒である。最近は、ときどきしかやらない。H末ファン。愛車工口ディナ(カルディナの一種)は頻繁に洗車されているようだ。

【 F村 】 ニ村尚夊 、 FP(ふたぷー)
 大学の同級生。
 高い手を狙うのが得意のラガー野郎。宇宙人という説もある。すなわち、ラグビー部で、宇宙からの交信をPHSで受け取り、麻雀星へと旅立つというのである。(これは、ビー部の部誌の部員紹介欄で読んだ伝説だ。)
 一時はよく打っていたが、今はときどき打っている。
 PCへの関心が深く、電脳街に位置していた彼の下宿先にはLANで繋がれたDOS/V機が用途別に三台あった。今は車を買って、実家に戻っている。
 テレホ環境を備えた彼はこのページへのお得意さまであると共に技術相談先でもあり、また、過激派である。
 藤#に九蓮を振った。
 借金の延滞が問題である。
 麻雀をほとんどやらなくなった。

【 玉# 】
 大学の同級生。
 その昔は一通の玉#と恐れられたらしい。「こんなんしゃーないやん。」「こんなん切るやろ」と切られる危険牌は高確率で通る、が通らないとやっぱり負ける。(当たり前か。)一度、一晩ともひどく負けた日があって、それ以来彼は現金自動支払機の無人くんだったのだとされた。すなわち、リー棒をおくとスイッチが作動して点棒が振り込まれる仕組みだ。彼の得意手はオープン立直であり、「どうせでんやろ」「こんなんツモるわ。」とかける三面待ち立直はツモれないが、カンチャンやペンチャンでかけるオープン立直を「プンリー、即、ヅモ、ドラなんたら」と叩きツモる姿にみな恐怖する。いまは、彼は「プンリーの玉#」とされている。一時は毎日のように打っていたが、今はあまり打たない。負けがこんでマジ顔になりながら半荘が終わり、「みんなどーすんの、やるのやらんの?とりあえず俺はやめられんのやけど」といいながら場決め用の東西南北を集める勇姿は、いまや伝説として語り継がれる。最近もまま打っている。
 三麻だとバカヅキを生かすのがうまいという。
 四麻はほとんどやらなくなった。

【 K藤Sー 】 しゅうちゃん 、 カロ藤ウ示一
 大学の同級生。部活も同じだったりする。
 97年度後半からひたすら打っていたが、一時期麻雀をずっとやらない期間があった。
 99年度は部活で幹部化して自由が利かなくなったのをいいことに、わりかし多く打っている。
 三麻にめざめたらしい。四麻はほとんどやらない。

【 打山 】(ブチヤマ)
 大学の同級生。
 俺に親の四暗刻単騎を振り込んだ男。クンロク(九万六千点)以下の点数は何を振り込んでも安く思えるらしい。彼の冬のギャグは夏場も場を凍らせる。彼の下宿先で騒音苦情を無視しながらよく手積みでやった。当時彼自身は週五回くらい打っていた。シビックやら家具やらで支払ってもらうかとみんなで話し合っていた。 特徴的なのに、「バ槓」と呼ばれる彼特有のカンがあり、みんなよく彼にドラを増やしてもらったモノだ。(みんな、「こりゃい槓」(これはいけない)、「振ったらい槓」(振ってはいけない)、「イカない槓」、(行かなくてはならない)、と荒れた場に踏ん張っていたのが印象的だ。)
 最近、ときに打つが、堅実さとほど遠い強気な打ちは、ときに大量の勝ちを回収する。
 ところで、彼は麻雀をやろうと面子が集まったときに「コンビにに行く」と言ってそのまま帰ってこない上に連絡もつかないと思ったら家に帰っていたり、「やろうぜ」といって平気で無連絡で来なかったりする、社会性と協調性の0未満の男だ。(本人は何も悪いと思っていないらしい。)この件に槓して迷惑をこうむった人は自分を含めて多く知っている。

【 SinZ 】 Sin士 、 進土(まちがい) 、 SinZ 、 SinZK
 大学の同級生。麻雀サークル「SinZ和や。」初代会長。
 ルールを覚えて間もない頃、オープン立直に一発で当たり牌を切って「んなん知らんわ!」と二翻まで安めた男。週四、五回打っていた期間を経て、学校が人より忙しい(と書けばかっこいいが、それはあれの連敗がもとになっている。)時期を経て、今は学校超楽生活なようだ。
 打山と二麻をやったり、彼と同席した回数が多すぎて、一時期は「カンドラを無しにしよう」と心が病んでいた。玉#の伝説を聞いて、「プンリーを無しにしよう」というのをよく聞く。 さらに、はじめたばっかのころに初心者ハンター鶴Dにダマされて極限までカモられた話も彼からよく聞く。
 最近はコンスタントにいいペースで打っている。バイトで金回りがいいのか、負けても楽しめているようだ。(いいことだ。)打つとトータル0の接待麻雀的ゼロゼロ麻雀になっていることが多かったのに、二千年一月は「金子先生」の本を読んで何かを得たらしく、勝ちまくった。
 麻雀大学で夜打つ麻雀実習では、夜間部学生としてみんなに授業料を払っていたわりにぜんぜん麻雀の内容が教えてもらえないと嘆いていた。が、ある時期、「おまえらには何も教えてもらってねぇ。金子先生に穴熊戦法を教えてもらったほうがずっと使えてるわぁ」と言っている。
 それ以来の彼の成長ぶりはめざましく、とうとう麻雀サークル「し○じか○や」の初代会長となった。寝て起きて麻雀して寝て起きて麻雀するリズムで、さかんにサークル活動している。メンツが集まらなければフリーにもいく。
 その雀風は「しむじさんは全局ゴミ狙いなんすか?」といわれるほどのスピード麻雀にある。自分の読みに裏付けられたゴミ蹴りは人を熱くして勝率を上げる効果があるようだ。
 FTO(フェ○ティーオーと呼ばれる)に乗っている。

【 石# 】 ひーくん
 大学の同級生。ラグ部。
 鶴DとかK藤と打っていたとき(筆者はいなかった)にデラックス三元を積み込んであがった・・・かもしれない(としておこう)。基本的な麻雀を心得た打ち士。ところが夜に弱く、徹麻では最初のうちはしっかり打っているのだが、夜が耽るにしたがって意味不明の言動と歌・踊りが加わっていく。昔パフィーをかけて打っていたときに「毎日ー毎日ー僕らはー」の次に俺の切ったマンズに中のみの「一飜(いっぱん!)」を倒した。そして曲は続き、「一般のー」と流れる。・・・あの和がりは価値のある一飜であったに違いない。(そのあとに「退屈〜しのぎじゃ〜嫌にも〜なっちゃうよ〜」と続いて、実にきまっていた。)
 彼はむしろ馬のが専門。
 オーラストップ目和がり止め有りの親で「あんこ○○あんこ77789」に「○」をツモって「ツモ三暗」と倒す姿には、彼の麻雀への姿勢が伺われる。(四暗刻単騎いけよー!)
 麻雀の誘いを滅多に断らない、逆境キングのようなところがいいところ。
※ところで、同パフィーのアルバムに入っている「ネホリーナ ハホリーナ」という曲が、どう考えても「♪  面混(メンホン)リー ♪ アホーリー 」といっているように聞こえる。それは我々だけではなかろう。また、メンホンで立直というのが贅沢なアホ立直であると思うのも我々だけではなかろう。

【 亮ー 】 亮ちゃん 、 中木寸亮ー
 大学の同級生。 硬式テニス部で、鶴DとかM本とかと同じ。麻雀初級者というわけで、鶴Dがよく強制的に卓につける。その優しい発声で「あ、それロン〜・・・」と立直ドラ3を倒す姿がにくい。最近全く打ってないみたいだ。

【 暇てつ 】 
 たしか大学の同級生。ぶつぶつぼやきながらチャンタ系を得意手としているように思える。どうしても面子が足りないときに付き合ってもらったりした。プレステやらで鍛えた麻雀はとても確率重視で、まるでコンピュータが一人メンツにいるような感じがした。みんなで「ゲームみたいにフルオートで牌も配ってやるし理牌もしてやるよ、俺らが。」と言ってるのにどうしても承諾してくれない。

【 はるくん 】 はるぷん
 大学の同級生。自分は数回しか打ったことがなく、どんな麻雀を打つのかよくわからない。が、確か面前で堅実な麻雀だったような気がする。家庭麻雀環境で育ったエリート。彼の麻雀についての考えが、ここ(Click here to go. )にある。

【 ジョンじ 】 ジョンジ 、 ジョンづぃ 、 ヅィョムヅィ
 大学の同級生。高校時も同級生。一緒に授業をさぼるダメ専攻のダメ科。馬ってばっかだったが、一時期より敬虔な麻雀学徒ととなった。(馬も続けているようだが。)彼の自己分析ファイルがここ(Click here to go!)にある。筆者とぷよぷよのできる貴重なひとり。

【 しばあき 】 Cばた 、 紫田(まちがい)
 大学の同級生。まま打つ。16オールの四暗刻をツモった翌日、筆者と一緒に19番ホールの大会に行って、しっかり浮いて途中抜けしたつわものだ。彼の家には役満犬がいて、筆者が麻雀を打ちながらかわいがっていたらアレルギーというものをはじめて体験した。愛車RVRは中古で買って長かったが、いまは買い換えて なんだったけ・・・ ナントカに乗っている。

以下は、部活の後輩。一コ下は全員打てる。ニコ下はほぼ全員打てるそうだ。みんな点5のフリーなら「楽しく」遊べるレベルではあると思う。

【 はぎ 】  はぎー
 部活の一コ下の後輩。大学に入ったころは「麻雀はゲームでしかやったことないっす」と言っていたのが懐かしい。いまや立直一発ツモ四暗刻他、ロン;メンチン平和一通、と鮮やかに牌を打ちさばくいっぱしの打ち手。最高手を立直し、流れを取り戻す麻雀は評価できる。静岡県出身。

【 広 シ頼 】  びろせ
 部活の一コ下の後輩。その豪快な麻雀は性格どおり。彼の牌を通したあとのタンピン三色は地獄だ。基本があるのであなどれない。性格どおり、最高手をめざすようだ。地元富山ではなぜかまわりがピンでしかやらないらしい。

【 みぱお 】 犬基 、 太基 (どちらも間違い)
 部活の一コ下の後輩。基本のしっかりした麻雀なのだが、三元役に弱い前歴を持つらしい。キャラ的に飽和してる。東京出身。東京は雀荘が充実しているそうで、そういえば、麻雀関係で高校の生徒会長を辞職したとかいってたな。

【 のん 】 のだのぐちのん
 部活の一コ下の後輩。手術を受ける前日の一時帰宅時まで麻雀を打っていたという勤勉な学生。堅実な麻雀、というイメージがある。名古屋ネイティブ。

【 ヒロキ 】 ビロキ 、 ピロキ
 部活の一コ下の後輩で、高校時は同級生。一コ下の連中は、部活と飲みと麻雀と合コン/デートを欠かさない、健全な生活を保っているようだ。学年で「軟庭軍団」とささやかれるのはどうなのか。

【 太T 】
 部活のニコ下の後輩。彼の同級生に「さいきん打ってるか?」と聞くと「オオタケっす。」というので、「大竹って誰?」と聞くと「大T家」ということだったりする。麻雀的にはめざましい成長ぶりを見せている。学校に近く下宿しているので電話すると、「すいません、いま三人集まっちゃいました」と言われて感動させてくれる。


 

ここから以下は、高校時の同級生。名古屋に麻雀しに帰ってくる(んなけなわけないけど、んなけのときもあるかな)。

【青KI】 まら木
 高校時の同級生。東京の大学へ行っている。名古屋に帰省してくるたびに打っている。その迫力ある麻雀は極限までの勝ちを回収する。が、冴えないとキレて吠えだしたりする。テンパイ状況をその巨こむの膨張具合で知らせる。以前、役満を張っていたときは台が揺れていた。
 大学ではダンス部のキャプだそうだ。
 東京では勝ちすぎてメンツがいなくなって困っているようだ。だが名古屋にくるといつも運がない。(フリーでも、l9Hでも結果がいまいち。内容はすごいと思うが。)
 筆者とぷよぷよの出来る二人のうちの一人。

【鷲MI】(鷲は「す」と読む) 積見(つみ)
 高校時の同級生。東京の大学へ行くために北海道で一年生を過ごした。(そういうシステムの大学。)受験期にセンター前に正月から俺らと麻雀をやっていて、そのせいで一年遅れたとかS久間L・T日といってた。
 巧妙な麻雀を打つので恐ろしいが、冴えないとブツブツぼやき出す。大物手を張って、その一牌を勝負して思いっきり振って、ハコってまう姿は大物だった。(最近はすばらしい防御率を感じるが。)ところで、彼の左手からは常時目が離せない。
 98年終わりに、家族によって自宅に全自動宅が導入され、名古屋帰省中は我々の他に休み毎にくる親戚と打ち続けているという。
 かなり根の座ったゲーマーで、過去は格闘ゲーで毎日ウン十人抜きしていた。あらゆるゲームへの順応が早くてこわい。
 あっちでは勝ちすぎてメンツがいないらしい。でも、99年度からは東京暮らしなので、ピンのフリーにも行き放題らしく、幸せだそうだ。ただ、勝つときは勝つが負けるときは負けるという。
 そういえば、Sin士はいまだに鷲MIと打ったときに見た地獄が脳裏から離れないらしい。
 スカイラインがある。

【S久間L】S悪魔、S熊、錯麻
 高校時の同級生。なんでLって、同姓がいて、SmallとLargeをわけてただけ。
 流れを重視する麻雀は、他家への振り込みによって厳しくなっている。
 最近まで仙台の大学で二輪をうならせていた。(この前 こけた らしいが。)今はFTOに乗り換えて、四輪派になった。仙台は何をやるにも雪が冴えんらしい。
 名古屋帰省のたびに囲む。
 愛車FTO(フェ○ティーオー)を手に入れた。

【T日】
 高校時の同級生。攻め時と守り時をしっかりわけて打つ。横浜在住、遠く情痴(深い意味はなく、ただの伏字です。どうかお気になさらないでください)まで通っているとか。テレホ環境が整っており、ネット信長とかをよくやってるとか。
 2000年、名古屋の家が引き払われて、名古屋人でなくなった。が、名古屋に住んでいないだけで人間としては名古屋人なので、名古屋弁立直もまだかけられるはずである。

【O崎】 岡Z
 高校時の同級生。目本大学在籍。名古屋帰省中は「メンツが足りなかったら呼んでくれ。」ということになっている。フリーにもままいっている遊人。 しかし弟と組んで大三元を和がるのはどうかと思われる。

 ここから以下は、雀荘l9Hをはじめとするネット関係で知り合い、実際に打ったことのある人たちについてだ。(承諾を得ずに載せているので、まずい人は即座にお知らせください。)

 雀荘l9Hについては恐怖伝説が多い。青KIをして「l9Hは麻雀をちょっと遊びでやっている おこちゃま の行ってはいけないところだて。」と-300台を叩いてしまった後の彼を言わすところ。喰い断のない麻雀は流し役満によって完結することになっている。 また、「お連時牌」←変換ミス、「オレンジパイ」という麻雀サークルとのつながりも深くなりつつある。

【Yosi君】 家主 、 オーナー 、 Hマダさん
 二十代にして雀荘l9番ホール二代目をされている方。K_Co.は「読んでるかわかんねぇな(Yosi君談)」といっていたメールマガジンの敬虔な読者だったので、そこでの大会に応募して知り合った。人によってその恐怖伝説はさまざまだが、個人的には南家の仕事が一番怖い。l9番でも何度優勝していることか。

【松B さん】
 雀荘l9H他さまざまな麻雀サークルおよびフリーで活躍されている雀士(プロではないが)。少なくともl9H1999年優勝者を何度も経ていることは知っている。個人的には、まず総合的なバランスがすばらしく、特にその状況判断(打ちまわし)・読みの深さが卓越しているよう思える。手作りの異様さは言葉では表現しがたいが、余裕があれば恐るべき捨牌で恐るべき手を作ってくる。K_Co.の当面の目標とする人だ。

【ASA さん】 Aさおかさん
 美人な奥さんを持ち、説得のもとでl9番Hによく来られている方。学生時代には三日連続不眠不休抜け番なしで打ちつづけた経験もあるとか。総合的にとても強いと思うが、特に手堅さがすばらしすぎると思う。が、絶対守備体制でもないようだ。国士のさりげなさがすごすぎる。(何人死んでいることか。)l9番ホール1999年トータル優勝者。

【harak さん】 Hらさん
 彦根(元大阪)よりl9H大会に来られる方。毎回上位になられているようだ。総合的に完成した麻雀であるよう思える。同卓はしてもケンが少ないのでなんとも言えないが、持てる手をギリギリまで生かすことに長けているよう感じる。オーラスの親に弱いと自称されている。個人的には、おそらく親で逆転できるという切り札のために子のときの引き際がちょっとどうなのだろうかと思うのだが、どうなのだろうか。

【MONOBE さん】 ○のべ さん
 l9HのOFF会常連さん。とてもうまく打っていると思われるが、役満放銃経験については話題になっているようだ。自分も東1で彼がASAさんに国士をやらかす現場を見た。

【さとう さん】 さとうA さん
 l9HのOFF会常連さん。その打ち筋は、同じ打ち方をした人を見たことがない独特のものだと思われる。「死にメンツ」は嫌って落とされるようだ。インチキ、インチキ、という声の意味が自分にはいまいちよくわからないが、ようするにそのままであるようだ。

【おーたに さん】
 l9HのOFF会常連さん。彼は学生だ。社会人の方の多いl9Hでは、自分が学生で彼と競っいて、どうやら自分の方が下なので、自分が最年少だ。

【ごー さん】 GO さん
 Yosi君によってl9HのOFF会に狩り出されてるみたいだ。その打ち筋は、九州系の力強さを感じる。

【さろー さん】
 l9HのOFF会をはじめ、さまざまな名古屋の麻雀サークルで打たれているようだ。本拠はDAWEナゴらしい。麻雀中にお子さんから「お母さん、夜遅いからはやく帰ってこなきゃだめだよ」と電話がかかるような幸福な家庭を守ってらっしゃるみたいだ。

【だんな さん】
 オレンジパイというサークルで打たれている方。l9Hの大会に大阪より来られていた。最も思いで深いのは、プンリー文化を知らない彼の前でプンリーツモして見せたら、そのあとのニ半荘で覚えたてのプンリーを炸裂されたことだ(プンリー即ヅモ断ヤオ裏1 やら ドラ待ちペン3ピンのプンツモドラ1 やら)。その実力は言うまでもないだろう。

【うたまる さん】 かわむらさん 、 うたさん 、 うたこさん
 一見ふつうのお姉さんであったが、麻雀を打たせるとこわい人であった。オヤジ系ギャグとその歌とともに、いわゆる強い人に見られる堅実かつ大胆な打ちスジを、弱そうなふりをしながらバリバリ打ってきて気付くとみんなおそろしいことになっていたりする人。麻雀だけの人ではないが、これだけ麻雀してる人は男女をとわずいていいのだろうか、いやいい。「Majiong Room」というホームページを管理しており、活動範囲はおそろしく広かった。

 その他にも多くの方と打たしてもらい、さまざまな経験をさせてもらった。彼らについて不変の特徴がつかめたら、加筆するつもりだ。


ここから以下は、自分が遠からぬ過去に打って、麻雀というものの技術部分を授業料とともにしっかりと認識させてくれた大学の先輩方だ。自分は数回しか打ったことはないのだが、麻雀を麻雀として認識する前のあのころはただひたすら強いという印象しかなかった。(なんでかもよくわからなかった。)

【Aヅマ先輩】 アズーリ 、 アズ
 自分より二つ上の部活の先輩。PC的にも頼りになる人。

【櫛Y先輩】
 三つ上の部活の先輩。

【マニロー先輩】
 四つ上の部活の先輩。

  上記の三人の先輩はサンマに燃えてあまり我々をカモらなかった。自分が麻雀の勉強を始めた後は、彼らの学年では学校が大変忙しいので滅多に打つ機会がなかった。Aヅマ先輩とはかろうじて付き合ってもらえて、いろいろ教えてもらえた。

【打夫先輩】
 五つ上の部活の先輩。「大学はテニスと車と女と麻雀だ。」と入学間もない我々に断言したセリフは印象深かった。うつお先輩とは読まず、うちお先輩、と読む。

 ここから以下は、家族・親戚の話。
 K_Co.はハイレベルな家族麻雀をすることが夢なのだ。

【おかん】 容ko さん
 仕事があって夜しか会わないが、ばあさんと俺の三人で暇つぶしに三麻することがある。麻雀の具体的ルールは何も知らないが、故・彼女の父(俺のじいさん)がよく家でやってたのを見てるはずだ。何回教えても抜きドラの北の抜き方を聞いてくる。

【おとん】 Yoshio 君
 麻雀は全くやらない。ルールも知らないみたいだ。なんでこの人の子がこんなに麻雀好きなんだろう。

【ばあさん】 ク恵(、足らず)さん
 母方のばあさんはよく麻雀のルールを知ってござる。

【おじさん】 チ豊おじさん
 和がったことのない役満がニ、三個しかないという強豪ぶりだそうで一度やってみたいのだが超多忙な人なのでその暇はなかなかとれない。この時代の人とは手積みでやれないし。
 → 一度やってみたが負けた。

【荒kのおじさん】
 祖母の弟にあたる遠い方なのだが、最強らしい。学生時代(昭和何年なんだ?)に先生と麻雀してるのがばれて校長室に呼ばれたとき、「麻雀はやりました、でも賭けてません。」と言って難を逃れたら、英語と体育が卒業まで全部優だったらしい。(そしてバラしたメンツの人は卒業まで全部不可だったらしい。)

【ko桜町のおじさん】
 祖母の兄にあたる遠い方だが自分がガキのころこそよくかまってもらえたが、いまや「手が震えるで麻雀はもうできんわ。」となってついぞその実力を目の当たりにせぬままだ。他界した。

【その他】
 その他の一回だけとか数回くらい打った人はまーまーたくさんいる。ここでは割愛。

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